投稿日:2008-06-03 Tue
浜松発祥の地『海老すくい踊り』元亀3年(1572)三方ケ原の一戦で敗れて意気消沈している徳川軍の前に、またもや甲州武田軍が来襲してきた。
家康は、すっかり元気を失くしている所将を見渡して、酒井忠次(さかいただつぐ)に海老すくいの踊りをいたせと命令した。
これから出陣という間際に、家臣筆頭の酒井に海老踊りをいたせというのだから、これはなんたることかと一同驚いた。冗談にもほどがすぎると呆れていると、よもやと思った重臣中の重臣が、やおら立ち上がると珍妙きわまりない海老すくいを踊り出したのである。
泥鰌すくいに似た滑稽な踊りに、一同思わず笑い転げてしまった。
そのためあの憂鬱顔も消し飛んで陽気な男たちの哄笑がつづいた。
・・・という事だそうです。遠州のみなさん!酒井の太鼓をたたいて、みんなで海老すくいを踊りましょう。
※参考文献:現代視点 戦国・幕末の群像 徳川家康(P88)
発行所 株式会社 旺文社
会員募集しています★
浜松海老すくい踊り保存会連絡協議会
(事務局浜名湖舘山寺美術博物館内)
投稿日:2008-05-27 Tue
舘山寺町の「とおず十頂(十頭)八幡宮」に祀られていた尾藤修繕の孫、宇多頼忠(うだ よりただ)の長女山之手姫(寒松院)が真田幸村を産み、次女おりん姫(皎月院)が石田三成に嫁いでいます。真田幸村は尾藤修繕の夜叉子になるそうです。最近わかりました。詳しくはカテゴリー堀江城木寺宮定姫物語・水神小径へ 「十頂(十頭)八幡宮」由緒(とおずはちまんぐう)
尾藤主膳(びとうしゅぜん)は、居城の堀川城(ほりかわじょう)を家康に攻められて落城。三千の徳川勢が大挙して堀川城に迫ってきた。大手は尾藤主膳、奥表口は山村修理(やまむらしゅり)が守った。総攻撃は永禄十二年三月十二日の干潮とともに。堀川城の城兵一千七百人とはいえ百姓主体の男女入り混じった村人らである。いくさ慣れした徳川勢に敵うはずもなく、全員が討たれ、戦闘は一日で片付いた。
落城の惨劇の中で、城将尾藤主膳は落城の様子を、堀江城に知らせるため部下十名と堀江城に行き、場内にかくれたが、やがて同城も徳川方と和睦開城するに至り、もはやこれまでと永禄十二年(1569年)三月二十七日、十人と共に切腹して果て「とおず十頂(十頭)八幡宮」として祀られました。
これ以前の永禄三年(1560年))五月、桶狭間の戦いの直後に尾藤主膳の子、尾藤源内と孫の又八郎が尾張に移って森三左衛門可成(よしなり)(森蘭丸の父で織田信長の家臣)に仕えていた。孫の尾藤知宣(とものり)は永禄年間に、羽柴秀吉に仕えるようになっている。
孫の宇多頼忠(よりただ)は引佐郡に当主として残っており、永禄七年(1564年)頃に武田信玄の家臣だった真田昌幸(まさゆき)に長女(山之手姫)を嫁がせ、真田ゆ幸村を生んでいる。
その後、天正三年(1575年)五月二十一日長篠の戦いで、武田家が遠江で勢力を失うと、宇多頼忠は所領を捨てて兄尾藤知宣を頼って近江の長浜城へ赴き、その紹介で知宣の主君羽柴秀吉の弟秀長の家臣となった。「竹生島奉加帳」には彼の名が兄知宣と共に残っている。 秀吉、秀長の出世と共に累進し、秀吉が天下を取って秀長が百万石の領主として大和郡山城に入った頃には、家臣団の中でも藤堂高虎に次ぐ一万三千石を領する重臣となっていた。石田三成に次女(おりん姫)を嫁がせたのはこの間のことで、秀吉の家臣団の中でのごく普通の縁組であった。

投稿日:2008-05-15 Thu
三方原合戦の太鼓を浜松城で打ち鳴らそう
元亀3年(1572)12月に勃発した三方原合戦において、徳川家康が浜松城に逃げ込んだ時、武田の軍勢に囲まれました。その時に酒井左衛門(姫路城のお殿様)が一計を案じ、浜松城の城楼に登り打ち鳴らしたのが「見附酒井太鼓」として現在磐田市の指定文化財として現存するものであるといいます。(山岡荘八の著書「徳川家康」にも書かれている事で有名です)その「見附酒井太鼓」を磐田市からお借りして、浜松城と当館で、イベントと、特別展を計画してみてはいかがでしょうか。浜松において、日本の歴史的展示物を扱う博物館として浜松城と当館で連携して浜松の歴史・文化をアピールしてゆく事業を展開できたらと考えております。 また、長らく「見附酒井太鼓」は浜松を離れ、その存在を知る浜松市民は非常に少ないと思われます。この企画を行うことによって、多くの人々に浜松の歴史と、その遺産の一つである太鼓の存在を知っていただけたらと思います。という企画書を昨年提出しましたら酒井の太鼓だけは実現しました。よかったですねぇ。
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